江戸時代〜富山城
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            城址公園を見て、富山のお城は小さかったんだなと感じます、確かに現在の城址公園だけを見ると
             その様に思いますしかし、本来の富山城はもっと大きなお城で、江戸時代の富山城は本丸・
               二之丸・西之丸・東出丸・千歳御殿(中之御屋敷)などから構成されていましたがこの内
                 城址公園として現在まで遺構が残っているのは、本丸と西之丸部分だけなのです
                   それでは城址公園と比べると、江戸時代の富山城はどれぐらいの大きさでは

明治18年に残っていた堀の図
右図.旧本丸御殿。天保4年(1833)に新築されました。廃城の際、藩主の居住空間である奥向きは取り壊され、表向きが県庁として使用された。
明治18年の市街図(部分)青色の部分が堀が残っている部分、埋め立てが大分進んでいることが分ります

明治33年に城址に再建された県庁舎、昭和5年に焼失    富山県会議事堂 明治42年に皇太子行啓記念事業として建設